AI生成画像は、芸術か?

なにこれ?

技術ブログでデザイナーが語れることを考えているうち、AIとアートに関する話は、意外とエンジニアの皆さんの知らない世界なんじゃないか、と思い立った。ので、たまには美大卒らしいところを見せようと思って張り切った結果、技術ブログというより、なんか鼻につく現代美術解説記事みたいになってしまった。睡眠導入剤代わりにどうぞ。

AIに芸術は作れるのか

「AIに芸術は作れるのか」というSNS上で嫌になるほど聞く問いは、たいてい能力の話だ。生成物が十分に巧いか、人間の作品と見分けがつくか、技術的に「上手」かどうか。この問いの立て方は少し、センスが無い。つまり「芸術かどうか」を規定するのは技術ではないからだ。

巧拙は芸術の条件ではない。写実の技術なら、19世紀の段階でカメラが画家を追い越していた。それでも絵画は死ななかったし、むしろ写真の登場以後に、絵画は印象派へ、抽象へと展開していった。技術的な巧さと芸術であることは、別の軸の話だ。

と言うわけで、少し聞き方を変える必要がある。AIが上手いかではなく、AIが関わった制作物のどこに——もし宿るとすれば——芸術が宿るのか。

こう考えた時、とある補助線を引くと、驚くほど綺麗に「AIの芸術性」を見通すことができることに気づいた。それが「現代アート」だ。

現代美術が百年にわたって問い続けてきた「何がアートか」という問いは、長いあいだ美術館の中の内輪のゲームに見えていた。ほとんどの人にとって、それは便器で、バナナで、町の落書きで、カニの缶詰だった。けれどその、内輪ノリの悪ふざけが、AIの芸術性を考える鍵になった。つまり、あの悪ふざけは、確かに本質を貫く問いだったのだ。

1964~1994 赤瀬川原平 《宇宙の罐詰》 ( photograph by アート数寄 )

AI生成は、解放にすぎない

ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、複製技術が芸術のあり方を根本から変えたと論じた。鍵になる概念が「アウラ」だ。*1これは、「いま・ここに一度きり存在するものが帯びる、一回性の権威のようなもの」と翻訳されることが多い(いま・ここ性と言ったりもする)。芸術が礼拝の対象だった時代、特定の場所に固有に存在することで、芸術は価値を持っていた。

写真や映画のような複製技術は、このアウラを凋落させる。複製物に「本物はどこか」を問うのは無意味だからだ。重要なのは、ベンヤミンがこれを嘆かなかったことだ。彼はアウラの凋落を、芸術が礼拝価値から展示価値へ移り、一部の手から大衆へと開かれていく解放の契機として、むしろ肯定的に捉えた。芸術が神殿や宮廷から引きずり出され、誰もがアクセスできるものになる。複製技術はその扉をこじ開けた。

AIによる生成は、この解放の系譜のさらに先にある。複製技術は「見ること・持つこと」を大衆に開いた。であれば、AIは、その先の「作ること」までを開いたと言える。生まれてから一度もデッサンをしたことのない人間が、絵画を生み出せるようになった。解放はまた一段、深いところまで進んだと言える。

そもそも芸術を作るのは誰か

ここで、近代美術が百年かけて辿った地点を確認しておきたい。人によっては耳にタコができるような話だが、あくまで現代アートに馴染みのない人に向けた文章だと思って受け入れてほしい。

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の小便器に署名だけして、「泉」と題し展覧会に出そうとした。彼は何も「作って」いない。工場製品を選び、向きを変え、署名し、芸術の文脈に置いただけだ。これがレディメイドと呼ばれる手法であり、20世紀美術の決定的な転回点になった。*2

1917 マルセル・デュシャン 《泉》 ( photograph by Alfred Stieglitz )
デュシャンが示したのは、芸術が「手の技能」に宿るとは限らない、ということだ。彼以後、近代美術の重心は「いかに巧く作るか」から「何を選び、何を問い、いかに文脈に置くか」へと移っていった。コンセプチュアル・アートに至っては、物としての作品すらなく、アイデアや問いそのものが作品になる。

つまり、芸術を芸術にしているのは、必ずしも制作の技能ではない。判断であり、コンセプトであり、それを成立させる文脈だ。手を動かすことと、芸術を成立させることは、すでに切り離されている。この前提を踏まえると、次の一歩が見えてくる。

だからAIにも芸術は宿る

芸術を作るのは、最終的には人間だ。AIアートにおいても、制作の主体は人間のままである。これが論の核心になる。

AIに指示を出すのは人間だ。どんなプロンプトを書くか、どんなデータセットを設計し、何を学習させるか。無数に吐き出される出力から何を選ぶかも人間だ。そして選んだものをどんなタイトルで、どんな文脈に、どこで発表するか——これも人間が決める。

指示・選定・発表。この三つの過程は、デュシャンが「泉」でやったことと構造的に同じだ。彼は便器という「出力」を選び、文脈に置いた。AIアートの作家は、モデルという装置が吐く出力を選び、文脈に置く。媒体が便器か拡散モデルかの違いはあれ、芸術行為が宿る場所は同じ——判断と文脈の側にある。

とりわけ「指示」の層は、見た目より深い。プロンプト一行だけが指示ではない。何を学習させるかという、データセットの設計そのものに作家性が宿りうる。どんな像を集め、どう分類し、何を排除するか。これは撮影者がファインダーの中に何を入れ何を切るかと同じ、作家の判断の行為だ。

だから「AIに芸術は作れるか」への私の答えはこうなる。AIは芸術を作らない。人間が、AIを媒体として芸術を作る。「芸術を作るのは人間だ」という前提と、「制作の主体は人間のままだ」という事実が噛み合えば、AI生成にも芸術は宿りうる、という結論は自然に導かれる。

では、プロンプト一行は芸術か

ここで当然の反論が来る。「ならばプロンプトを一行打って、出てきた画像を垂れ流す行為も芸術なのか」と。

私の答えは、「当然その通り」だ。ただし、一つ条件がある。それが芸術たりうるのは、そこにコンセプトがある場合だ。芸術たりえないのは、AIだからでも手抜きだからでもなく、コンセプトが不在だからだ。媒体ではなく、コンセプトと文脈が芸術を芸術にする。

ただし「コンセプトがある」という基準は、放っておくと何でも回収できてしまう。何を出しても「そこにコンセプトがある」と言い張れるなら、基準として機能しない。(これはコンセプチュアルアートが受け続けてきた批判でもある)だから条件を一段、具体化したい。コンセプトがあると言えるのは、第一に、それが事後の後付けではなく制作の判断を実際に方向づけていたとき。(ビジネスっ用語っぽくいうなら、「コンセプト・ドリブン」であるとき)第二に、作家の他の言動や作品と整合する文脈を持つとき。第三に、受け手や批評がその文脈を読み取り、議論できる形で開かれているとき。コンセプトの有無を作家の主観の宣言だけに委ねず、制作の構造と受容の場に開く。これで基準は機能を取り戻すはずだ。

さらに踏み込めば、「AIにアート性などない」という否定すら、アートに反転しうる。それを単に口にするのではなく、問いとして成立する文脈に置いたとき——たとえばデュシャンが美術館・署名・展覧会という制度の只中で「これは芸術か」を制度に問い返したように——その否定は、現代美術が繰り返してきた自己言及・制度批判の系譜に接続する。文脈はどこにでも勝手に乗るのではない。問いが届く場に置かれて初めて作動する。(という立場もある)

解放の二つの帰結

AIによる解放には、二つの帰結がある。

一つは、粗製濫造されたAIイラストの氾濫だ。これは喜ばしいことだと私は思う*3。写真もそうだったはずだ。カメラが普及すれば、考えなしのスナップが世界を埋め尽くす。だがその氾濫は、芸術写真の価値を毀損しなかった。むしろ「誰でも撮れる」状況こそが、「では写真の芸術とは何か」という問いを先鋭化させた。AIイラストの氾濫も同じだ。量の海の中でこそ、「では何がアートなのか」を問う圧力が生まれる。粗製濫造は解放の副産物であって、アートの敵ではない。それは解放が実際に起きている、という、ただの現象にすぎない。

もう一つの帰結が、すでにアートとして成立しているAIの現代美術だ。生成物そのものの巧さではなく、AIという技術への問い、データという素材の扱い、生成という現象そのものを作品化している作家たちもいる。例として、

  • レフィク・アナドル(Refik Anadol):膨大なデータセットを流動的な視覚像へと変換し、データそのものを素材=絵具のように扱う作家。生成された像の美しさだけでなく、「データを物質として見る」という視点そのものをコンセプトに据えた点が白眉。MoMAでも展示された。
  • アンナ・リドラー(Anna Ridler):自ら撮影・分類した大量の画像から手作業でデータセットを構築し、その制作プロセス自体を作品の核に据える作家。第4章で述べた「データセットの設計に作家性が宿る」を、文字どおり実践している。出力を選ぶ前の、データを集めるという行為そのものに作家の判断を埋め込んでいる。

二人に共通するのは、AIを単に絵を出す道具として使うのではなく、AIという技術への問いそのものをコンセプトとして宿していることだ。第5章で見た基準——コンセプトが制作を方向づけ、文脈に開かれている——を、彼らの仕事は満たしている。粗製濫造のイラストとの差は、画力でも技術でもなく、ここにある。

そしてこれは突然変異ではない。デュシャン以降、近代美術はすでに「作る技能」を手放しても芸術が成立する地点に到達していた。AIアートは、その百年の流れと地続きだ。

鋭いコンセプトは、いずれ受容されうる

「泉」が提起された1917年、「何がアートか」という問いは、実用性のない挑発だった。ほとんどの人にとって、それは美術館の中の出来事であり、生活には関係のない、ただの遊びで、揶揄の対象だった。その後の百年、現代美術はこの問いを問い続けたが、一般大衆との距離はむしろ開いていった。技能を捨て、概念へ向かうほど、「こんなものが芸術か」という戸惑いは深まった。なぜなら、絵筆を持たない人にとって、「絵を描けることがすごい」のであって、多くのアートの裏にあったはずの「問い立て=コンセプトの設定」のすごさは、「頑張れば私にもできること」だったからだ。

だがAI生成画像が氾濫されたいま、状況が反転した。絵筆を持たない人も絵を描けるようになり、フィードを開けば、生成された像が無数に流れてくる。「何がアートか」という問いは、美術館を出て、万人の日常に降りてきた。

現代美術は、その問いに答えるための道具を、すでに手元に用意していた。技能と芸術を切り離すこと。芸術を判断と文脈の側に置くこと。コンセプトこそが肝要であること。これらはデュシャン以来、批評家や作家が研いできた道具だ。誤解してはいけないのは、デュシャンがAIを予見していたわけではない、ということだ。鋭かったのは、その「問い立て=コンセプト」だ。つまり、「芸術とは何か?」

媒体がAIか絵筆かは芸術の成否を決めない。決めるのはコンセプトと文脈だと言える。AI生成画像の氾濫は解放の失敗ではなく、その証拠であり、すでに一部の作家はそれをアートへと昇華している。AIアートは、新しいジャンルとして確立に向かっている。

そして何より、AIは、現代美術が百年問い続けた「何がアートか」という問いを、ついに万人の実生活の問いにした。これが一番言いたいことだ。

何がコンセプトを持ち、何が手遊びにとどまるか。何が後世に芸術として残るか。それは作家の宣言だけでも、一人の批評家の権威だけでも決まらない。公共の議論の場と、時間の淘汰が決める。印象派もゴッホも、同時代には受容されなかった。ゴッホの絵画がアートたり得るのは、彼が生前売れなかったことも、彼の弟が画商だったことも、彼の自認が画家だったからでもなく、「歴史」と言う開かれた場で、彼の作品の魅力が批評され、受容されたからに他ならない。

さて、AIアートをめぐっては、これとは違う意見が当然ある。「あれは芸術ではない」という声も、「すべて芸術だ」という声もある。だが、これだけ論じてもなお決着しないこと自体が、AIアートがいままさに公共の議論と時間の淘汰のただ中にある——つまり、一つのジャンルとして生きて成立していく過程のただ中にある——ことの証拠なのだと思う。

*1:英語読みで「オーラ」。オーラのある人、とかのあのオーラのこと

*2:『泉』は確かにアイコニックだが、現代アートがここから始まった、というのは大袈裟すぎる、という見解もある

*3:画像生成AIの学習材料を、作者に無断で使っていることの倫理的正当性については、また別の議論を要する